日本橋七福神詣

                      七福神への信仰は、室町時代より始まったといわれ、
                     五○○年にわたって日本人に受け継がれ、年々盛んになっております。
                     日本橋七福神は他所とは異なり、すべて神社で構成され、
                     しかも日本で一番巡拝が短時間にできるという特長を持っています。
                     日本橋通りや人形町通りは、江戸下町の伝統を持つ繁華街です。
                     下町情緒に触れながら、参拝いただきますよう、ご案内申し上げます。
                     出発点は定めておりませんので、御自由にお巡りください。
                                   
                                                        日本橋七福会


水天宮 室生辨財天

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日本橋七福神詣 色紙


御朱印


祭神
 天御中主神
 安徳天皇
 高倉平中宮(建礼門院、平徳子)
 二位の尼(平時子)



水天宮の由緒


水天宮は、久留米藩主有馬頼徳公が港区赤羽の藩邸内に久留米市水天宮の御分霊を文政元年(1818)勧請して創建したといいます。
藩邸の移動に伴い、青山への遷座を経て、明治5年当地に遷座しました。



境内掲示による水天宮の由緒

当社は文政元年(1818)港区赤羽にあった有馬藩邸に当時の藩主有馬頼徳公が領地(福岡県久留米市)の水天宮の御分霊を神主に命じて藩邸内に御分社を祀らせたのが創めです。
久留米の水天宮は今からおよそ700年程前に創建されたと伝えられております。
彼の壇ノ浦の戦いで敗れた平家の女官の一人が源氏の目を逃れ久留米付近に落ち延び、一門と共に入水された安徳天皇、建礼門院、二位の尼の御霊をささやかな祠をたててお祀りしたのが創めです。

江戸時代の水天宮は藩邸内にあった為、庶民は普段参拝できず、門外より賽銭を投げ参拝したといいます。
ただし毎年5日の縁日に限り殿様の特別の計らいにより藩邸が解放され参拝を許されました。
その当時ご参拝の妊婦の方が鈴乃緒(鈴を鳴らす晒しの鈴紐)のおさがりを頂いて腹帯として安産を祈願したところ非常に安産だったことから人づてにこの御利益が広まりました。
その当時の水天宮の賑わいを表す流行り言葉に「なさけありまの水天宮」という洒落言葉があった程です。

明治維新により藩邸が没収され有馬邸が青山に移ると共に青山へ、更に明治5年11月1日、現在の蛎殻町に御鎮座致しました。

関東大震災では神社も被災しましたが、御神体は隅田川に架かる新大橋に避難し難を逃れました。
その後御復興も相成り、昭和5年流れ造りの社殿が完成、時移り昭和42年現在の権現造りの社殿となりました。



「中央区史」による水天宮の由緒

水天宮(日本橋蛎殻町三の二)都電水天宮停留所際にある。
久留米(福岡県)水天宮の本社と同じく天御中主神・安徳天皇・建礼門院・二位の尼を祀り、古来水神としてあるいは安産の加護神として人々の尊崇を集めてきた。
文政元年十一月江戸赤羽(現、港区芝赤羽)有馬藩邸に遥拝所を設け分靈を遷したのが創建の由来で、明治四年八月赤坂に遷座し、翌年現在地に鎮祀して同十一年五月七日官許を得たものである。
以来全国にわたる崇敬者の信仰を集め、一年一年隆盛を加え、かつ門前町として人形町の殷賑を招来した。

大正十二年九月の震災に見舞われたため、昭和五年三月新社殿を造営したが、これが今みるところのものである。
敷地五八五坪、社殿一五坪、社務所二二坪、門番所一〇坪、御鬮場一坪三合と称する。

毎月一日・五日・十五日・戌の日に月次祭を行うが、初水天宮・例大祭(五月五日)・戌の年戌の日には遠近より来り詣でる人々多く繁華雑沓を呈するが、その繁昌ぶりは他にその比を見ないといわれる。
神楽七十五座や覍地元有志の余興が奉納され、境内外には縁日がところ狭しと立ちならび、参詣者陸続としてつづく盛況は都下の一異観であった。

上図は明治三十三年ごろの水天宮景況であり、その繁昌を表門側すなわち今の都電線路側から描いたものであるが、今日の水天宮と比較して甚だ興味深いものがあろう。
月次祭に頒与する神符は鑁・吨羅俱・吽・糺哩窶・痾の五文字から成りこれを「いつもじ」というが、久留米筑後川に宝剣を写し、その映った水で墨をすって謹製するものだという。
この文字を水で頂くと有難いと喧伝されるが、信仰者は真中の文字より指でち切って頂き、次に左下・左上・右上・右下と恰も平仮名の「の」の字のごとき順序に頂くという。
祭神および神符の沿革については新修日本橋区史に詳しい。
境内社に火風神社・秋葉神社(鎮火の神)・高尾神社(雨の神)があり、別に真木和泉守保臣の霊を祀った紫灘神社が明治十年以来本殿の南側に依願設置されている。
また、昭和二十七年境内社として中央弁財天を奉祀し毎月已の日に月次祭を執行している。
これは北品川旧有馬別邸にあったもので、品川七福神の一つに数えられていたが、俗に虫歯弁天または宝生弁天とよばれる丈三尺の像で雲慶作と伝えられる。
                                                                      (「中央区史」より)


東京都神社名鑑による水天宮の由緒

文政元年(一八一八)、有馬頼徳公が領地久留米の水天宮を、三田赤羽の藩邸に勧請されたにはじまる。
明治元年、有馬家とともに青山へ、同五年、今日の蠣殻町有馬邸に遷座された。
現在の社殿は昭和四十二年十一月鉄筋の権現道に改築されたものである。
安産・水難除等の神として崇敬者は全国に広がっている。
毎月五日戊の日、五月五日の例祭日は大いに賑わう。
                                                                   (東京都神社名鑑より)



今日はお天気がいいのですが、風が少し強いようです。気温は、8時36分 3.0℃です。  9時頃大宮駅に着きました。
9:17発の京浜東北線で上野に向かいました。 9:57上野駅に着きました。
山手線にはホームドアが設置されていますが、京浜東北線にはこれから設置されるそうです。 階段を下りて
中央改札口から東京メトロ日比谷線に向かいました。 10:08改札口を通りました。
日比谷線で人形町まで行きます。 10:10発の中目黒行きの電車で
10:17人形町に着きました。 人形町通りを南に歩き
甘酒横丁を渡ると
松島神社の幟がありました。
← 水天宮 重盛の人形焼 豆大福 
新大橋通りを渡ると、水天宮の建物です。
この建物は地震の時に横にゆっくり動いて地震の衝撃をかわす免震建築物です。 日本橋七福神詣  水天宮
水天宮 階段を上りました。
                   
                        御 由 緒

        御祭神  天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)

               安徳天皇   第八十一代
               建礼門院   高倉天皇の中宮 安徳天皇の母君 御名 徳子
               二位ノ尼   平清盛の妻 御名 時子 安徳天皇の祖母
                        建礼門院の母


 
当社は文政元年(1818)港区赤羽に在った有馬藩邸に当時の藩主第九代・有馬頼徳公が久留米城下に鎮座していた水天宮の御分霊を藩邸内に祀ったことに創まります。
壇ノ浦の戦で敗れた平家の女官の一人が源氏の目を逃れ筑後川の河畔に落ちのび、一門と共に入水された安徳天皇、建礼門院、二位の尼の御霊をささやかな祠をたててお祀りしたのが水天宮の創めです。
江戸時代の水天宮は藩邸内に在った為、庶民は普段参拝できず門外より賽銭を投げ入れて参拝したと伝えられてます。
ただし毎年五日の縁日に限り、殿様の特別の計らいによって藩邸が開放され、参拝が許されました。
その当時、ご参拝の妊婦の方が鈴乃緒(鈴を鳴らす晒の鈴紐)のお下がりを頂いて腹帯として安産を祈願したところ、ことのほか安産だったことから、人づてにこの御利益が広まりました。
その当時の水天宮の賑わいを表す流行り言葉に、「なさけありまの水天宮」という洒落言葉があった程です。

明治維新により藩邸が接収され、有馬邸が青山に移ると共に青山へ、更に明治五年十一月一日、現在の蛎殻町に御鎮座致しました。

関東大震災では神社も被災しましたが、御神体は隅田川に架かる「新大橋」に避難し難を逃れました。
その後御復興も相成り、昭和五年に流れ造りの社殿が完成し、昭和四十二年には権現造りの社殿となりました。
現在の社殿は平成三十年の江戸鎮座二百年を迎えるに当たって、有馬家十七代当主・当代宮司の有馬頼央の念願により、平成二十八年に境内地全面免震構造の建物として完成致しました。


平成二十八年四月五日                                                                     水天宮

右大臣 鳥居 左大臣
本殿
狛犬 龍の手水舎 狛犬
反対側からの映像です。
新しい朱塗りの社の前には人が大勢いました。
宝生辨財天      扉は開いているのですが、簾が下りているのでご神像は拝観できませんでした。

                              宝生辨財天(ほうしょうべんざいてん)

                              祭礼日  五月第二巳ノ日

                              御祭神  市杵島姫大神(いちきしまひめのおおかみ)

                              久留米藩第九代藩主有馬頼徳(よりのり)公が
                              加賀藩第十一代藩主前田斉広(なりなが)公と
                              宝生流能楽の技を競われた際
                              辨財天に願をかけ、見事に勝利を収めた
                              それ以来、宝生辨財天と敬われ
                              芸事をはじめ学業・金運のご利益が名高いと
                              現在に至るまで篤く信仰されている

                              毎月五日と巳の日だけ
                              御社殿の扉を開き
                              宝生辨財天のご神像を拝観できる

水天宮本殿
日本橋七福神詣
3階に上がると御朱印所がありましたが、もう既に何人も並んでいました。
綺麗な洗面所です。 大勢の人たちがやってきました。 色紙にスタンプを頂きました。
腹帯などが並べられていました。 帰り口を間違えてしまい、一旦戻ってから矢印に従って下りました。
ここが2階になります。
                       外に出ますと、はとバスでやってきた一団と会いました。